初代校長・水月哲英先生のゆかりの品々

水月哲英先生肖像画

初代校長水月哲英先生の肖像画

後に筑紫女学園初代校長となられる水月哲英先生は、1900(明治33)年、浄土真宗本願寺派北米開教の責任者であるサンフランシスコ仏教青年会の会長として渡米します。20世紀初頭のアメリカで、哲英先生が驚かれたのが、アメリカ女性の社会的地位の高さでした。

この経験を通して、女子の教育環境を整えることに自らの使命を感じるようになり、後に、生涯を日本の女子教育に捧げることを決意されます。

帰国後、哲英先生は西本願寺と福岡の西本願寺僧侶に熱心に女子教育の必要性を訴え、「第四佛教中学福岡分教場」(開校から5年後に廃止)の施設を利用して、1907(明治40)年4月11日、水月哲英先生を創設者とし、「筑紫女学校」が開校します。

そして、わずか1ヶ月後の明治40年5月13日「私立筑紫高等女学校」に改組されました。

水月先生車いす、松葉杖

水月哲英先生の車椅子、松葉杖   

哲英先生は、渡米先のサンフランシスコで「開教使」として多忙な毎日を送る中、34歳の時、階段を踏み外して転落する事故が起きてしまいます。この転落事故で幸い一命を取り止めたものの、脊髄損傷という大きな怪我をして寝たきりの状態となり、米国での開教活動を継続していく夢が絶たれ、生きる希望を全く失ってしまいます。失意の中、約5ヶ月後に帰国され、その後は懸命のリハビリにより、松葉づえを突いて歩行できるまでに回復されました。そして、1902(明治35)年「第四佛教中学福岡分教場」の教頭として就任します。

不自由な体をおして、糸島の自宅から学校のある警固まで片道2時間以上かけて人力車に乗り、通勤されたそうです。この生活はその後35年間にも及んだといいます。

水月哲英先生の扁額

水月哲英先生の扁額

「見善如不及」(善を見ては及ばざるがごとし)

初代校長の水月哲英先生の書です。
職員室内の出入口に掲示されています。
「論語」季氏篇に見える言葉で、「善いものを見たならばそれに向かって努力する」という意味です。
書かれた時期は分かりませんが、若い頃から漢学に親しんでいた先生ならではの書です。

編集後記

創設者である初代校長の水月哲英先生のことなどを取材させていだきました。
大きな怪我をされ、不自由な体でありながらも、毎日休むことなく学校へ足を運ばれていた哲英先生。
大変な苦労をされながら、女子教育に尽力された先生の思いがたくさん詰まったこの学園で学べる喜びを、生徒の皆さんにも感じてほしいと思いました。
これからも建学の精神、そして学園の伝統を末永く受け継いでいってほしいと切に願います。